古文書などに仙人という知的老人、大概は粗末な衣類を羽織った姿の男が登場しますが、人間の俗世間を飛び出して、または摘み出されてか、どちらでもええんですが、その道を極めた仙人が、よく人知れず、突き出た岩山に暮らしつつも、時折、下界からエッサホイサと山を登って現れる使徒にお告げをしています。これはは、やはり仙人とて社会との関わりまでは断つことができず、まぁやっぱり人の温もりってええよなぁとか思ったり、オモロいネタを思いついたから他人に言って笑かせたいわ〜そういえば使徒くるやんか!笑かしたろ!という欲望が仙人とてあったりして、そういう人間としての弱さは仙人となりえた身分でも克服できずに持ち続けているからではなかろうか。
何が言いたいかというと、人は根源的に「社会との関わり」を捨てきれない種族なのだと思うという話。
どなたの小説か忘れてしまったのですが、おひとり様の中年女性が、喫茶店でなんとなく気が合う店員さんに出会い、その喫茶店で働いてみる話があったのですが、その中年女性は訳あって働かなくても良いような境遇であったと思うのですが、喫茶店で働くことで「社会との関わりもできた」と言って充足感を得ているフレーズがあったんですね。
私は、誤ってこの小説を2回図書館で借りまして、ずいぶん前に読んだ一度目の時には引っ掛からなかったフレーズだったんですが、二度目に読んだ時に「ああ、なるほど。だから今の自分は少し余裕があるんだ」と思ったんです。
二度目に読んだ時、学校での仕事をスタートさせていましたので、そこに私も日々の「社会との関わり」からくる充実感を得ていたんですね。補助とかギブアンドテイクとか、そういう役柄の仕事で。もちろん、普段のデザイン業やギャラリーを通しての社会との関わりもあるのですが、割とスタンドアロンで、いやゼロではないのですが、なんかしらの役割に収まって動くことではないので、関わり方も少し質の違うものと思います。流れに乗って動くのと、流れを作って動かすのと。
何が言いたいかというと、今まで気にしてませんでしたが、よりよく生きるとか、生きがいとか、そういうので悩んでる方には、社会との関わりというのはまぁまぁ大事なんかも知れません。特に独りで悩んでいる方には。
先日、ALTの先生と雑談をしていて、「掲示物のポスターの余白が気になって仕方がないんよ」と話をしていて「それってOCDみたいだね。僕の兄弟がそうだよ。カトラリーなんかは同じ場所にないと気が済まないんだ」と言っていて、そういうのをOCDって言うんや〜と思いつつ、調べてみてハッとした。
OCDはObsessive-Compulsive Disorderの略で、日本語では「強迫性障害」とのことだった。
言葉、強いな〜と思いながらも、この強迫性障害の症状を見ていると当てはまるものが非常に多く、最初は「んなこたないやろ〜」と思っていたものの、自分は軽度であれ強迫性障害持ちだと認めざるを得なかった。
そして、強迫性障害について調べていると、また新たな病に気が付いた。
「反芻思考」である。反芻思考は、何らかの出来事をトリガーとして、過去の嫌な思い出をフラッシュバックさせて何度も何度もループさせる精神的な自虐行為である。
私は、反芻させてしまう嫌な思い出を10パターン程持っている。主に、思春期の思い出であるが、10年も20年も苦しめられている。自分に。反芻せずにはいられない、という強迫をしている。
そもそも、反芻思考は、あんな馬鹿なことを繰り返さないように、というメッセージを込めて、自分にその映像を何度も見せているのだろうけれども、これがけっこーキツい。
フラッシュバックした時はしばらくほとんどの意識を持っていかれる。わかったからもうやめてくれやーとか心の中で自分に言っている(一人のときは時々口に出している)。夜中に「あー!」と叫んでいる人がいたら、反芻思考に陥った人か、狂人のどちらかだと思う。
というわけで、私はこの「強迫性障害」と「反芻思考」に苛まれている。
有効手段といえば、私の持つ「まぁまぁめんどくさがり」という性格。
自分の「マメである」とか「完璧主義」の面は強迫性障害からきていると思う。その比重が高いと疲れてしまうので「まぁまぁめんどくさがり」という性格がバランスをとり、シーソーの反対側に乗っていることによって、一般的な人間の枠内に収まり、真っ直ぐ歩けるようになっていると思う。あれ? 真っ直ぐ歩けてるよね?
クラウドファンティングの話なんですが、出てきた当初はまぁええ仕組みやなと思ったのですが、なーんかもう感動ポルノ・共感ポルノ化してたり、そんなもん自分でなんとかせぇやというものも多く、違和感があるんです。
緊急性のあるものならともかく、なんでコツコツやらへんの?って思うのが多い。
クラファンで成功したら即100%の理想的な状態でスタートが切れるのかもしれない。
けれども、蓋を開けてみたら理想の60%もあれば十分やったとか、100%でスタート切ったけどなんか燃え尽きてるわとか、ちょこちょこないですかね。
やらんとわからへんし、やりながら変える、っていうプロセスも大事とちゃうかなーと思うんです。身の丈にあった形で、小さくスタートして、徐々に大きく、あるいは自分に合った形に変えていくのもええと思うんですけど。性格ですかね。
自分の立ち位置で話をすると、デザイナーなんて他にもいくらでもいるのに、こんな自分に仕事をくれている方々には、クラファンしてもらってるようなものだと思うんです。呼び方が違うだけで。せやから、いただいた報酬はありがたく、コツコツ事業投資と生活に使わせてもらっています。
話変わりますけど、クラファンで一番儲けてるのプラットフォームちゃうかなーと思うんですが、そこが中抜きするのも何だか初心から矛盾してるなーとも思う。資金調達ビジネスって感じ。